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歳時記

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2016年3月 5日 (土)

【1615】観音寺城址

近江歴史探訪「近江の城郭」の第5回は、観音寺城でした。前回の、佐和山城攻めの城「物生山城」の講義で、「近江の中世は、佐々木六角氏の時代であった」という話を聞きました。今回は、その六角氏の城跡です。

城跡探訪は人気があり、今回は4つの班に分かれて、時差進行。1班で申込み、2班に割り当てられ、集合場所が見つからず遅れて3班になりました。集合場所は「プラザ三方よし」、五個荘町の近江商人の豪邸が保存されている観光地の近くです。

今回のルートは、結神社の登山口から、郭跡の多い尾根伝いに繖山頂上(432m)まで登り、下って本丸で昼食、さらに少し下って郭跡をみて、観音正寺へ出て、結神社へ帰るというものです。

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郭跡には、「平居丸」とか「池田丸」と重臣たちの名がついていましたが、いずれも頭に「伝」とついていて、確証はないようです。○どの郭も、他の城跡では、本丸に相当する広さで、それがいくつもあり、どのように使われていたかわからないようです。

石垣がたくさん残っていました。観音寺城のある繖山は岩山なので、郭の整備をするとき出てくる岩を利用したと考えられます。石垣を多用した城は、安土城以降に多く見られる中で、これはめずらしいことです。ただ、以後の石垣に比べ、垂直に近い立ち上がりや、幅が狭く上に建造物(物見やぐらなど)は、建てられなかっただろうことなど、違いが見られました。石垣というより、土塁に変わる石塁と言えるようです。

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立派な石垣があるのに、虎口の守りがゆるいのも、「?」でした。一番大きい石が使われていた「伝平井丸」は、正面に大口が空いた「平虎口」でした。「伝本丸」には「食い違い虎口」があるものの、後から増設された様子です。

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城というのは、本丸が中枢部分で、その周り(下)を一族の郭が固めているのが一般的だと思うが、観音寺城は、中枢部分が明確でない。本丸と言われる上にも郭が存在したりする。これも「?」

発掘調査では、郭から、陶磁器、茶器などが見つかり、山城で生活していた確証となった。それまでは、山城に生活の場があったという確証が得られてなかったらしい。

今回の、観音寺城の探訪は、これまでの山城とは違った面白さがあった。さらに、鎧武者登場というサービスまでついて、満足度もアップ。案内の県文化財保護課の方の説明もわかりやすかった。

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2016年1月11日 (月)

【1605】物生山(むしやま)城

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歴史探訪講座「近江の城郭」の一環、今回は彦根市の「物生山城」。どうしてこういう読みをするのかわからないが(学芸員も)、これを「むしやまじょう」と読む。初めて聞く名前だった。

午前中の講座は、鳥居本公民館。レトロな近江鉄道鳥居本駅から10分ぐらい歩いたところにある。

「戦国近江の終焉」と題して、滋賀県文化財保護課の松下氏の講義。近江の中世とは、六角氏の時代と言えると前振りがあり、守護大名として六角氏が力をつけ、織田信長に滅ぼされるまでの流れを話された。

信長が上洛するために、東山道の拠点を確保しなければならなかった。関ヶ原の出口にあたる「長比城」「刈安城」を抑え、「横山城」で浅井をけん制し、次は「佐和山城」。佐和山城を抑えるために、その四方に城(砦)を築き包囲した。その北方の城が「物生城」だった。佐和山城址から稜線を北上し、その北端に物生城址がある。

昼食もそこそこに、物生城に向かう。国道8号線を越え、近江鉄道の軌道を越え、集落を一つ越え、山に入る。(途中の川が、外堀の跡だと、ちらっと聞いたが未確認。)これから向かう道は「かもう坂往還」とか「龍潭越え」と呼ばれていて、反対側の龍潭寺へ抜ける、松原内湖方面へいくため、よく使われた峠らしい。

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尾根に出て、左へ行けば佐和山城址。今日は右に向かう。木が茂っていて、あまり見通しはよくない。時々見える景色から、どのあたりにいるのか推測する。何度か小さなアップダウンを繰り返し、切掘りがあって間もなく先端部に到着。しかしここが城址ではなく、90度右に折れてしばらく進む。

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土橋のある堀切が現れ、もう一つ堀切。

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曲輪を経て主郭に到着。今日の参加者130人が入るといっぱいになる。そして南に佐和山城が見える。これが90度折れて進んだところに城を築いた理由。

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佐和山攻めのために作った城だけれど、竪堀、横堀もある。尾根はかなり幅が広いので、兵たちはそのあたりに分散していたと思われる。信長が、佐和山攻めに出張ったとすれば、おそらくこの物生城に来ただろうということだった。

下山は南東に伸びる尾根から。下りてすぐの小さな集落に、水路で真四角に囲まれたところがある。彦根藩の重臣の下屋敷と見られている。今下りてきた山の鞍部を越えると、彦根藩の火薬庫(弾薬庫)と思われる跡が見つかっている。おそらく、山越えする侵入者を見張るためだったのではないかと思われている。

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物生城の位置と縄張り図⇒SCN_0004.pdfをダウンロード

2015年10月19日 (月)

【1549】田屋城址

県教主催の連続講座「近江の城郭」の第一回は、琵琶湖湖西の城「田屋城」でした。

 

高島市マキノ町の総合施設の中にある公民館で、午前中の講義。講師は滋賀県教委文化財保護課の中川博氏。「戦国時代の湖西」と題して、湖西の歴史について話された。
今回わたしがこの講座に参加した理由の一つは、浅井氏と深い関係があった事に興味を引かれたからです。

浅井氏はもともと朝倉氏の被官であったこと、田屋から明政が、浅井亮政の婿養子に入っていること、田屋城址には朝倉の城郭の特徴がみられる。などの関連付けた話があった。

昼食後、いよいよ田屋城祉実地見学。講師は同じく文化財保護課の松下浩氏。森西集落の後ろにある、城山と呼ばれる標高300mほどの山に登ります。
途中で、田屋氏の館跡とされる「長法寺」に立ち寄りました。館の遺構としては、かろうじて土塁跡と思われる地形が敷地の隅に見られるだけです。

地元の森西集落では城跡への案内が出ていて、道もよく踏まれていて歩きやすい。

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ジグザグに切り返しながら登って、左手に巨大な竪堀が現れると、間もなく大手口に着く。

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重枡形かさねますがた)虎口の大手口を入ると、眼下に知内川の流域が一望できる。対岸の米原市の特徴ある建物が判別できるが、小谷城は琵琶湖に突き出た半島の陰で全く見えない。

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大手口に面した曲輪には、横矢掛の構造も見られる。さらに登ると、二の丸、本丸が現れる。本丸の入り口は内枡形虎口で、高い切岸に囲まれている。その先には、両側に堀切、土橋のある曲輪も控えていて、後方(北)からの防御もしっかりしている。

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これだけ堅固な立派な城は、単に湖西の一豪族の城の範疇におさまるものではないでしょう。朝倉―浅井―田屋の関係があればこそではなかったでしょうか。

2015年3月15日 (日)

【1513】長法寺遺跡・打下城跡

近江歴史探訪 大地の遺産「長法寺遺跡」に参加。

コースは、JR近江高島駅→打下(うちくだし)城跡→長法寺跡→長法寺城跡→大溝城跡→JR高島駅

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長法寺跡については、昭和31年、高島高校歴史部が調査し、世に出てた寺院跡。滋賀県教育委員会の出しているパンフレット参照。http://www.pref.shiga.lg.jp/edu/sogo/kakuka/ma07/maibun-katuyo/files/maibun-book03.pdf

上記パンフレットと逆回りのコースとなった。

出発前の注意で、クマの巣がある、ヘビがうじゃうじゃいる、蚊がわんさかくるところだと聞いた。だからこの時期が一番良いのかもしれない。

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高島駅を出て山に向かって歩き、日吉神社鳥居手前から、右に入り、橋を渡ったら川に沿って進む。獣害除けの金網を通りぬけ、山腹の道を進む。「打下城跡」の案内がいくつもあり、コースを外れる心配はなさそうだ。谷川をはなれて、尾根に向かい分岐には、案内板のほか、テープの印もあり、左手を気を付けていればわかる。

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ちょっと急なジグザグを登ると、打出城跡と、長法寺跡の分岐分岐となる峠につく。
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まず左手に進むと、打出城南廓跡。いったん下って切堀、後急登(切岸にあたる部分か)で、土塁の中に入る。虎口はその対角にあった。虎口の近くに櫓台があり、それを支える石積みが残っていた。Dscn3414_2

引き返して長法寺に向かう。割合緩やかな道を進み、鉄塔の下に出る。そこからは湖西平野が一望できた。昼食は、次の鉄塔まで進んだところ。こちらは近江八幡方向が見える。Dscn3427

さらに次の鉄塔で、長法寺の案内板に従って右手に入る。すぐに寺院らしい様相になる。もう僧坊跡が始まっているという雰囲気。Dscn3429

そのまま進むと、少し高くなったところに説明板があり、本堂跡と思われる。大きな礎石が落ち葉の下からのぞいていて、大庇があったと思われる。切り立った山を背に建つ本堂の後ろには、庭園跡と思われる石組や、石塔の基盤と思われる石も残っていた。Dscn3430_2

下の段に降りて進むと、僧坊の石組が現れる。100メートルに及ぶそ一直線の石組の長さから、いかに大きな寺院だったかがうかがわれる。石組は何段にもなっていた。その南端まで行くと、鐘楼があったと伝えられる小高い一角に出るDscn3437

本堂まで引き返し、本坊跡を通り、山を下る。手水鉢の形をとどめた石も残っていた。この寺院跡からは、瓦は見つからず、板葺か草ぶきだっただろうと説明を受けた。Dscn3447_2

今回のメインは長法寺で、打下城と、長法寺城は、おまけで付いてきた。打下城は、城跡としてはっきり確認できるが、長法寺城は、疑問符付であって、寺院関係の施設だった可能性もある。平坦地と土塁らしき跡で、とりあえず城跡とされているらしい。

さらに下っていくと、蓮池と呼ばれる小さな池にであう。その山の上が、打下城跡になる。

山裾に出ると、その道は古道西国道のなごり。砂防ダムのところに万葉歌碑があった。乙女が池が湖西線の向こうにあり、対岸の伊吹山が。春霞の中にうっすら見えた。Dscn3457_2

JRの下をくぐると、その横の道は、江若鉄道の跡だと教えられた。先日大津でその起点近くを見てきたので、感慨深い。Dscn3465

乙女が池を回って日赤病院の駐車場を回り、大溝城本丸の石垣に至る。石垣が残っているだけだ。住宅地を回って表の道に出ると、「三の丸跡」の石柱があったが、もはや何の面影もない。

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一緒に参加した人から、道の真ん中に川が流れている道があると聞いて、電車待ちの時間を利用して行ってみた。大溝城の時代、防火用水、融雪、洗物など中水道として利用されていたと教えてもらった。ゆっくり回れば城下町としての遺構にももっと出会えたかもしれないのが心残りだ。Dscn3494

駅前に、「ガリバー旅行村」をイメージする、巨大ガリバーが立っていたが、無粋な襷が何とも情けない。Dscn3488

出発時は小雨があったが、途中から日が差してきて、良い山歩きだった。

2015年2月20日 (金)

【1507】三雲城址と旧東海道

近江歴史探訪「近江の城郭 城と街道」、今回は東海道の近江の国へ入り口、甲賀の城「三雲城」

当初車で現地に赴く予定だったが、道不案内の上、運転にも自信がなくなって、前日に電車に変更した。「近江歴史探訪(おうたん)」で、公的交通機関を利用するのは初めてだった。

集合場所は、JR草津線三雲駅。予定より一電車早くついてしまったが、リュックを背にした人がぞくぞく下車した。今回の募集は、60名ということだったが、実際の参加者は100名を越しているとか。Dscn3263

時間が来て、簡単なあいさつの後出発。旧東海道時代の、鈴鹿峠を越えて近江に入ると、土山宿、水口宿、石部宿と続く。三雲は水口と石部の間にある。道沿いに虫籠窓(むしこまど)の家もしっとり。Dscn3265

野洲側と国道一号線を右に西に進む。橋のふもとの道標が3つあるところを経て、「三雲まちづくりセンターに立ち寄る。

ここで、「織田信長の近江侵攻と六角氏」という題で県文化財課の松下氏の講義があった。甲賀地域の国人たちの中で、始終一貫して六角氏に近い立場であった三雲氏の歴史的存在について話された。
この後昼食を取り、三雲城に向かう。

まちづくりセンターを出ようとすると、小雨。天気予報ではsunマークが並んでいたのに、あてにならないものだ。でも登山用ザックをそのまま持ってきたので、雨対策はバッチリ。

大沙川隧道まで旧東海道を歩く。このあたりの山は花崗岩なので、砂状にくずれ川に流れ込むため、天井川ができるそうだ。川を越すため、高い土手を登らねばならず、難儀していたので、明治になって、外国人技師を招いて隧道が掘られた。現役最古の石造トンネルとなっている。Dscn3270

しばらくこの大沙川の高い土手の上を歩いて川をさかのぼる。新興住宅地がなくなって、そのまま林道に入る。10分ほどで、青少年野外施設があり、その手前で右に入る。舗装された林道を登ることさらに15分、三雲城の大手門入口に到着。Dscn3276
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林道から入るとすぐに、道が二手になっている。左の道を採る。しばらく進むと、石組が現れたので、「すわ、もう城の石垣」と、何枚も写真を撮ったが、これは近代作られた治山用の石積みだった。

さらに登って枡形虎口の石垣に突き当たる。Dscn3310

この虎口を抜けると大きな曲輪があって、井戸も残っている。土塁は高く、自然の地形を利用したものではないだろうか。主郭はその上にある。さらに南奥にも廓があり、その間に堀切、竪堀があった。(この竪堀の後に、階段がつけられ、歩道になっているのにはがっかり)Dscn3307

枡形虎口の下から、八丈岩といわれる大岩へ向かう。一つの大岩には、三雲家の家紋が掘られていた。また白龍が祭られていた岩は、ふもとの東海道からも確認できた。Dscn3312

再び東海道に戻り、夏見城跡に立ち寄る。特に何もない山裾だったが、真鍮製の毛抜きが発見されて注目されているとか。

その後もう一つ隧道を通り、甲西駅に出ました。

2014年9月28日 (日)

【1452】苗木城

苗木城 中津川市高森山  戦国時代築城 江戸時代(明治維新まで)苗木藩(遠山氏)

という基礎的な情報の中で、「中津川市」だけがわかっている状態で、出かけることになった。JR中津川駅で、乗り換え時間の合間に、観光案内から得ただけの知識である。

木曽川をはさんで、中津川市街地の対岸の高森山に、苗木城はある。資料館の上の駐車場まで車で登ったが、城の遺構をもっと見ようとしたら、資料館から歩いたほうがよい。すぐに鈎のてになった石垣に出会う。ここに大手門があったのかと思ったが何も表示はない。
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石垣が途切れた先の平地は、足軽長屋跡。道横に城跡の見取り図がA3の紙に印刷しておいてある。現在地を探したがみつからない。どうやら見取り図に描かれた場所より外にいるらしい。

少し行くと、二人が草刈り作業をされている。堀にあたるところのようだ。先日の雨で崩壊し、迂回するよう表示があり、て直進すると、巨岩を使った石垣があらわれる。矢射りとして機能していたのだろうか、出っ張っている。P1100675

反対側の石垣も素晴らしい。犬走り部分まで草が刈られていて、よく見えるP1100678

厩跡があり、住居部分が始まる。このあたりの西に面した部分の下は急斜面になっている。南西の角に、開かずの門である「不明門」。先に道がない。

らせん状に天守に近づくことにして、南面をゆく。木曽川に面した方角になる。今も水の湧き出ている「清水門」を過ぎ、南東の「物見」に出る。「おっ」と声が出てしまう。木曽川、中津川市街、恵那山が、目前に広がる。P1100683

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東側に回って登ると、少し入り組んだ先に、白蓮の自筆の歌碑がある。NHK朝ドラで訪れる人も多いことだろう。P1100691 城あとに やかたも人も いまなくて かたるは何ぞ 山鳥の声  白蓮

北面は、的場をみて、「本丸口門」に出る。これで本丸をぐるり一周したことになり、かなりの高さになったが、本丸はまだこの上にある。また巻くように登ってようやく、本丸の大岩に到着。P1100712

大岩の上に展望台が組まれているが、なんとこれは、本丸の柱跡をそのまま使って、組まれたものだということだ。巨岩の上に、三層の天守か築かれていて、三階部分がいま展望台になっている。
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天守を降りて大門に出る。P1100718

天守から見えた大やぐらに登るが、最高所には行けないP1100721

それにしても巨岩が多く、それが石垣など城の守りに行かされている。(矢印の先に写っている人を、岩と比べると大きさがわかる)P1100689
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麓の資料館に入れば、もっともっと興味深いことがわかったと思うが、時間の都合で寄らずに苗木城を後にした。

2014年5月21日 (水)

【1429】山本山

湖北野鳥センターの観察会で、「山本山」登山。(2014/5/19)

山本山は、戦国時代、城のあったところ。冬になるとオオワシがきて、ねぐらにするところ。城跡を見るためとか、賤ヶ岳への縦走のために来たことはあったが、自然観察は初めて。参加者は、小学生から、わたしより年配しゃまで、年齢差60歳以上。

野鳥センターで簡単に説明を受けた後、登山口までマイクロバスで。バスを降りたときから観察会の始まり。道端に生えている野草の名前が次々に上がる。小学生は目ざとい。小さな虫でもよく見つける。採取したものを入れるケースを持ってきている少年もいる。

初めての花や虫の名前をたくさん聞いたが、まともに記憶できたのは、ほんの少し。しかし長い間見たいと思っていた花も見られた。「ウラシマソウ」がそれ。マムシソウは、この時期なら高い確率で見られるが、その仲間の「ウラシマソウ」は見たことがなかった。もう花期も終わりに近かったが、マムシソウも近くにあり、比べてみることができたDscn2057
山腹にあるお寺には、平和の鐘が下がっていた。小さな三つの鐘が下がった鐘楼だった。「鳴らしてもいいですよ」と、言われたので、一番に鐘に取りついた。大人げなかったか。(でも鳴らしてみたかったんだから)Dscn2060
一人が、鳥の巣を見つけた。ヤマガラの巣らしい。苔と鳥の羽根でできている。さすが野鳥の専門家、一目で何の巣か、使われている鳥の羽根の種類を言う。Dscn2063
寺から先は、獣害対策のフェンスを越えて急な山道。その途中でも、木の名前を教わったり、虫を探したり。地元の人が多いから、見晴らしの良い所では、自分の住んでいる所を探したり。

やがて三の丸。曲輪の中に入って、今来た道が丸見えで、敵を迎えるのに都合よくできていることを確認。

そして二の丸。奥琵琶湖が美しい。夏の割には空気が澄んでいて、高島の街もよく見える。Dscn2072_3

ここで早めの昼食。昼食をとる樹上に、朴の木が、大きな花を付けていた。高いのと葉の上に咲くので地上から見えにくい。Dscn2070

昼食後、本丸を通って北上。「近江湖辺の道」の一部なので、整備されている。二重堀切や、土塁が、山城だったことを物語っている。

山が琵琶湖に迫り、湖岸を走っていた道路が山の反対側に出るところで、下山。下山の道は、トンネルができるまで琵琶湖側の集落の子供たちの通学路だったという。私と同世代の人が、こんな道を毎日通っていたのかと驚く。Dscn2076
麓集落から野鳥センターまで、野草や虫を観察しながら帰る。イネ科の野草が幾種類もあって、せめてひとつくらいは覚えて帰ろうと思った。「スズメノオチャヒキ」「イチゴツナギ」を覚えたような気がするが、同じものを見つけて確認しなくては。

さてセンターに帰って、今日であった花、虫、鳥、その他動物、木の名前を挙げると、なんと70ぐらいあった。(わたしが名前をあげたら、その半分にも満たない。覚えていないのだ。)

いつもの山歩きとは一味違う山でした。

2014年4月28日 (月)

【1425】堂木山砦(賤ヶ岳の合戦)

「賤ヶ岳の合戦」は、柴田勝家と、羽柴秀吉の戦いだった。賤ヶ岳は合戦場の南端に位置する。実際の合戦は、賤ヶ岳の北にある余呉湖周辺だったのだろう。

堂木山は余呉湖の北側にある山で、ここに柴田軍の砦があった。合戦のための砦という感覚で見に行ったら、食い違い小口や、横矢歪を備えた、全長150mもある、立派な城跡で驚いた。一時的な砦というより、恒久的な城として造られたように感じた。

2014年3月 2日 (日)

【1411】虎御前山

旨い具合に時間があって、城郭研究家長谷川博美さんと、虎御前山散歩。散歩と言うには濃すぎる3時間半。

鳥居横の舗装道路から虎御前山に入る(中野登山口)。

虎姫時遊館でもらった「虎御前山ハイキングマップ」によると、その左手からすでに古墳が連なっている。虎御前山尾根(南を八相山と呼ぶ)には、古文書に「数え上げるも愚かなり」と記されているほどの古墳群がある。この古墳を利用して、砦が築かれたが、古墳の破壊はそれほどひどくはないらしい。

調査のためか、下刈りがされて、等高線のロープが張られているところがあった。前方後円墳、円墳など形がよくわかるようになっている。前方後円墳では、方墳の部分が、広がっていない古い形だと説明をうけた。P1090044 

最初の古墳上の砦は、多賀貞能の陣と伝えられるところ。続いて(伝)蜂屋頼隆の陣。取り壊しの決まっている県立キャンプ場にも、古墳の上に(伝)丹羽長秀の陣。神社の一隅にも古墳。

古墳から古墳へ渡り歩いて、滝川一益の陣、堀秀政の陣と伝えられている所を歩く。犬走り、切岸があり二層三層の城の構えをしている。竪堀や土豪の位置などから、南に対する防御の様子がうかがわれるから、元は浅井方の城であったことがよくわかる。

凄いのは織田信長の陣とされているところ。P1090049 
切岸の高さ険しさは、ほかのところの比ではない。P1090058

P1090052 ハイキング道路として整備されているので、切岸に梯子を設けて登るようになっていたが、本来の入り口は別のところにある。
浅井方の武将がまもっていた城を、織田方が攻略し、さらに手を加えたのではないだろうか。小谷城攻めの短期間にここまでの城を作るのは容易ではない。

次の整っているのは、木下藤吉郎の陣と伝えられるところ。比較的傾斜の緩やかな小谷城側には、七段九段と言う犬走りが設けられ、虎口に当たる横には堀に相当する池が掘られている。正面に小谷清水谷の入り口が指呼の間に見える。武将の軍扇の動きさえ見えるほどだ。浅井長政にとって、喉元に刃を突き付けられた気分だっただろう。P1090054 ⇑馬も走っただろう帯曲輪
 

一番北に位置するのは、柴田勝家の陣と伝えられるところ。ここは防御が明らかに甘い。一応犬走りも見られるが、勾配もゆるく、隣の陣跡との関係も希薄な感じがした。

P1090053勝家の陣から見た小谷山。

ここから引き返えし、信長の陣と伝えられるところより派生した尾根を下りる。何もないと思っていた茂みの中に、竪堀、縦土塁が現れ、曲輪跡が現れた時は驚いた。信長先手の陣があったところらしい。信長の陣とその下の急斜面が見える。「比翼の陣」とはこんなのかな。

長比城・鎌刃城・横山城と南の城を次々奪われ、目前の虎御前山も敵の手に落ち、朝倉に援軍を求める長政の心中。こうして浅井家は滅び散ったのかとしみじみ思うのだった。

「虎御前山って凄いですね」と山を下りながら言ったら、「あの小谷城を攻めるのだから、相応の陣が必要ですよ」と長谷川さん。素晴らしい半日でした。

 

2014年1月26日 (日)

【1407】鯰江城・井元城

連続講座「近江の城廓 歴史の舞台となった城」は、今回は「鯰江城」「井元城」でした。

場所 : 東近江市なまず江町と、妹町(井元=妹)

歴史背景 : 「鯰江城」 土豪森氏の居城⇒土豪鯰江氏の居城⇒観音寺城を逃げた六角氏が入城 
         「井元城」 鯰江城攻撃の付城の一つ。
 

鯰江城の遺構 暗渠の石組 生活用水を土塁の外の壕へ流すためのもの

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鯰江城の遺構 内側の土塁

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鯰江城の遺構 本丸跡と土塁(土の下に石がある)

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井元城遺構 神社に続く林で、豪、土塁、馬出が、よくわかる。

Dscn1082 馬出はコの字型の二重角馬出。鯰江城側に堀切がある。

井元城遺構 切岸と犬走。愛知川河岸段丘を利用していて、この地方の城の特色。

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