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歳時記

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2015年11月 4日 (水)

【1551】秋の吉野

吉野の紅葉が見たくなって、関西ワンディパスを利用して行きました。(JRの快速と近鉄特急で3,600円也)

久しぶりに電車に乗ったものだから、京都の乗り換えでまごまご。近鉄電車の乗り場に通じる通路に出られないよおdespair 出口と思って自動改札に切符を入れたら「ブー」、新幹線の乗り場でした・・・ 乗り換え時間は十分余裕があると思っていたのに、・・・焦りました。近鉄の樫原神宮駅も初めてで、これは興味津々。

吉野駅について歩き始めたのは10時35分でした。今回は出来るだけ奥に行くというのが目標。ケーブルカー乗り場の横の道を通り、細い階段を昇ると、右手に赤い鳥居があって、車の通れる舗装道路に出ました。Dscn4628そのまま舗装道路を登ったのだけれど、途中で下に細い道があるのが見えました。Dscn4630「えーっ、あっち通りたかったなあ」と思ったけれど、どうしようもない。やがてその細い道は、舗装道路と交わり、また先で別れました。今度はその細い道に入って、ジグザグに登っていくと、ケーブルカーの終点駅の近くに出ました。案内絵図では「七曲り」と書いてありました。もう地元名産の「柿の葉寿司」や「葛まんじゅう」など並んでいます。心惹かれながらも、とにかく上へと歩きます。

黒門(吉野の総門)をくぐり、銅の大鳥居の横を通り、Dscn4635_2 やがて前方に大きな建物が見えます。金峯山寺蔵王堂です。奈良の大仏殿に次ぐ、二番目に大きな木造建築だそうです。Dscn4640 右の回り込んでいつもと違うルートで境内に入ります。近くの宿坊からか、笙の音が聞こえてなかなか優雅でした。正面に回って一礼して、また上に向かいます。土産物屋さんの多いにぎやかな一帯です。たぶんこのあたりで下千本。ちょっと家がまばらになって正面に、吉野水分神社です。(中千本)Dscn4656ここで正午の時報が鳴り響きました。食事する所がないかと覗くと、境内での飲食はダメという断り書きが目に入りました。そうよね、こんな趣のあるところで、弁当広げられちゃたまらないよね。道端の丁度良い丸太に座って、紅葉を眺めながら昼食をとりました。

さてその先は、もう人家はなくてさびしくなります。でも時折、下って来る人と出会います。せっせと足を運んで、どんどん高度を上げていきます。檜を伐採しているところがありました。丁度休憩中の方に、「木を伐って売られるんですか」って聞いてみました。伐った木は、市場などに出すそうです。でもそれが目的じゃなくて、跡に「桜」と植えるために伐っているのだそうです。Dscn4664

正面に金峯神社の鳥居が見えて「修行門」という額がかかっています。Dscn4663 ここで考えました。「時間の余裕がない、ここはパスして、上に向かおう」と。道端の地図を見て、鳥居を右に見て舗装道路をさらに奥へ進みます。山を大きく巻いているので、なかなか目的にところに行きつきません。目的のところというのは「女人結界」の石があるところと、大峯奥駆道の入り口にあたるところです。

帰りの電車は、15時の特急指定席を取っています。それに乗り遅れると、急行で帰るしかありません。電車を降りてから乗るまでの間が4時間半。帰りに半分の時間を取っておけば大丈夫…という最初の計算時間を過ぎても、目的地は現れません。時間配分の変更を余儀なくさせられました。下りは登りより時間を取らないからと、登り2時間半、下り2時間としました。誰も通らない道を、懸命に歩いて、目的地を見つけられないまま、とうとうタイムリミットの13時になってしまいました。いさぎよく(?)Uターンします。

「青根ヶ峰」というのが、今巻いてきた山です。せめてもと、このピークを踏んでいくことにしました。青根ヶ峰の登り口あたりからは、紀伊山地の山並みがきれいに見えますDscn4674 登り口に来てハッとしました。車道ばかり歩いていたから「女人結界石」は見つからなかったのです。旧道を歩かなければならなかったのです。青根ヶ峰のピークを通過し、反対側の登り口に出ました。このあたりと思って探したのですが、見つかりません。時間がないので諦めるしかありません。

人が一人通れる幅の旧道を下りてくると、Dscn4683西行庵への道筋にぶつかりました。さらに下ると「金峯神社」に出ました。嗚呼!金峯神社をパスしようなんて思わなかったら、もっと早く行けて、女人結界石も見つけられたのに。「これはバチがあたったのかも」と反省しました。

後は一路吉野駅へ。ここは奥千本。地図で見るとにぎやかな通りからずっと奥まった山の中です。どのくらい時間がかかるかどこにも書いてないし、とにかく急いで下るしかありません。脇目も振らずという感じで、どんどん、どんどん歩きました。やっと人家が現れると、気が緩んで登りと別コースを取りたくなります。でもダメダメ。方向音痴女のこと、とんでもないところに迷い込んで時間を食う可能性大です。

土産物にも目をつむり、いい匂いにも誘惑されず、七曲を下りて、登りに通れなかった小道に着ました。残り時間30分、たぶん迷わない・・・はず。この道の入り口を知りたくて下りていくと、赤い鳥居の横に出ました。ケーブル横の道の続きでした。10歩ほど下れば見つけられたのです。あとは余裕余裕で500mを歩いて、吉野駅に到着しました。Dscn4693 土産物屋の店先の床几で食べた、おやきの美味しかったこと。

2015年9月24日 (木)

【1545】豪商の庭

ボランティアガイド協会の、長浜再発見-長浜お庭めぐり-に参加しました。申し込んだのが実施日の前日の17時。集合時間に赴くと、参加人員は3人だけ。ガイドの数のほうが多いのかと思ったが、結局ガイドは2人で出発。

「明治の名庭を見る」ということで、「慶雲館」「安藤家」「大通寺」を回る。

慶雲館は、明治天皇が長浜港で船を下り、汽車に乗り換える際の休息所として、長浜の豪商が建てたもので、「慶雲館」の命名は時の総理大臣伊藤博文と言われている。建物のすぐそばまであった琵琶湖は、その後埋立てられ、今の長浜港はずいぶん遠くなってしまったが、その時の駅舎は、日本最古の駅舎として慶雲館の向かいに残っている。

今回の見学対象の庭は、その後25年の記念事業として、七代目小川治兵平とその長男によって作られたもので、広大な池泉回遊式庭園である。盆梅の時期、何度も訪れているので、今回は庭に入れるのかと期待していたが、やはり駄目だった。日本式庭園でありながら、芝が使われ、灯篭の数は30基にもなる。2階からの眺望も考慮されているところも、一般の日本庭園とは異なるところだろう。P1110751

舟板塀の道を歩き、北国街道を北に向かう。港と駅の隣なので旅籠が多くあったらしく、昔ながらの旅籠の構えの旅館もある。駅前通りを横切ってすぐ、安藤家がある。

安藤家は、長浜十人衆の一人として秀吉が長浜を治めた時代から江戸、明治と活躍した家です。明治期には。北大路魯山人を食客として招いている。
虫籠窓、ベンガラ格子、うだつと、長浜の金持ちらしい家で、道に面した部分はさほど広くないが、奥が深い。
P1110767

今回ラッキーなことに、年2回しかない「小蘭亭」の公開日だった。この小蘭亭は、北大路蜀山人の趣味があふれている。ふすまの中に丸い障子がはまっていたり、天井はグリーンに塗られ壽の文字、中国的な文様、私から見たら遊び心いっぱいと思える。
その小蘭亭の前庭を「古翆園」という。(湖水に掛けたらしい)長浜で気鋭の造園師・布施宇吉によって作られた。宇吉は慶雲館の庭にも手伝いに行っている。石は四国から運ばせたもので、絶妙な配置をしている。梅、ツツジ、紅葉と四季を楽しめるように植えられている。
P1110762

北国街道をさらに北に進み、子供歌舞伎の絵が上げられているアケードを進むと、大通寺表参道に出る。正面に大通寺の大きな山門が聳えている。P1110772

大通寺は、真宗大谷派の長浜別院で、地元では「御坊さん」と親しまれている。本堂阿弥陀堂は、伏見城殿舎が、本山御影堂となり、さらにここに移されてきたもので、大広間も伏見城の大広間が移築されたものと言われる、色あせたり、はげたりしてしまっているが、派手な建物であったことがうかがえる。

大広間の奥に「含山軒」がある。伊吹山を借景とした枯山水の広い庭である。しかしながら、手入れの行き届いた、慶雲館や安藤家の庭と比べると、いかにも荒れ果てている。もっとも荒れているのは庭だけではなく、文化財として貴重な襖絵や屏風絵も、ひどく傷んでいた。
「蘭亭」は、左に重心を置いた石組の庭で、回遊式ではなく部屋から見るようになっている。
P1110777


秀吉が長浜城を構えて以来、長浜のまちは発展し、明治時代には絹糸で財を成した豪商がたくさん現れた。そういう豪商の家に必ずあるものは「蔵と庭」だとガイドさんは話された。見学の道中、ちょっと庭を見せてくださいと、旧家の庭を拝見したこともあった。そして庭は歴史につながっていた。

再発見をテーマに、長浜駅から大通寺まで街中を歩いたが、ゆったりと歩いてみると味のある街だと思える。

2015年3月29日 (日)

【1520】お山(比叡山)へ登る

近江歴史探訪(おうたん)年度最終回は、『大地の遺産・日本仏教の母なる雄山をたずねて』で、歩いて『比叡山』を訪ねることだった。

(10:00)京阪坂本駅集合。今回の募集は、往復徒歩のコースと、下りはケーブルカーのコースに分かれていた。往復徒歩のほうが敬遠されるかと思っていたが、予想に反してケーブルカーの約2倍の人数。私はもちろん往復徒歩申込み。

最澄の生誕地と伝えられる「生源寺」を経て、穴太積みの石垣の続く道を、日吉大社鳥居前まで。この左横の階段が本道登山口。我先にという感じで、階段を昇りはじめるメンバー。階段に続く車道歩きを少し。Dscn3620

Dscn3666

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道が相当荒れている。それでも、おうたんメンバー以外の登山者も多い。木が茂っていて、琵琶湖の展望はほとんど望めないが、木の間から少し。穴太積みのあらわれて、舗装道路になるが、勾配は胸突き八丁。Dsc3664_3

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延暦寺表参道を昇りつめると、山門にあたる文殊楼。本来はその前の急な階段を昇るところだが、左にカーブする道なりに歩いて、一隅会館の前に集合。なかなかのハイペースで、空腹感も増すが、さらに歩いて椿堂近くの広場(親鸞の修行の地)で昼食をとる。(12:50)

昼食後は、「にない堂」から。ふたつの同じような堂が渡り廊下でつながっている。今もこのお堂で厳しい修行をされていると聞く。Dscn3638

そのまま進んで釈迦堂。信長の焼打以前の建築物。といっても、焼打ちを逃れたというのではなく、園城寺の金堂(1347年頃)を移設したため。延暦寺最古の建築物。でっかい。Dscn3642

来た道を引き返し、伝教大師廟(浄土院)。きれいに掃き清められている。草一本塵一つあってはならないらしい。 Dscn3644

山王院堂下を通って、東塔に出る。阿弥陀堂前の水琴窟に、耳を傾けた。Dscn3653

戒壇院を経て、大講堂。ここでは重装備の靴を脱いで昇殿。歴代の聖人の肖像画と、流ちょうな解説をさらっと流して、わずか10分程の参詣(?)。Dscn3655

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やっと、最初にとおるべき山門、文殊堂楼。楼の上に登ることが可能だが、我々にはその余裕がない。くぐってその先に、根本中堂。文殊楼を出ると、上からその正面入り口を見下ろすかたちになる。階段を下りて、入堂。これまた話しなれた流れるような法話を聞き流し、10分弱で外に出る。ツアー会社の旗のもと、大勢の人が根本中堂に吸い込まれていった。Dscn3658

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これで今回の歴史探訪の終了。後は下山するのみ。
さすが健脚揃い。そのスピードにはついていけず、これは浅井山の会よりきついと思う帰路だった。

2014年11月28日 (金)

【1458】多賀三社まいり

近江歴史探訪の一環として、「多賀三社まいり」という企画があったので参加した。(11月22日土曜日)

三社というのは、多賀大社、胡宮(このみや)神社、大滝神社で、そのほかにも道中の史跡を訪れた。

近江鉄道多賀大社前駅前に集合。車で行ったので、近くにJAがあることを調べておいて、駐車させてもらった。60人が二つのグループに分かれ、時差約40分で出発。多賀大社前駅は初めて行ったが、きれいな駅で、地元の農産物も売られていた。

駅より右手に進み、名神高速道路沿いに進む。途中で下をくぐって反対側(登り車線側)に出る。そのまま多賀サービスエリアのあたりまで来て、細い横道を上るとサービスエリアの一角に出る。ここが第一の目的地「敏満寺跡}であった。 Dscn2987

敏満寺は、浅井、織田の焼打ちにあって消滅したとされるが、古く正倉院文書にも名を残す、一大寺院であったらしい。今、サービスエリアとなっているあたり一帯に、その寺院群があったとされるが、道路工事で調査もされないまま破壊されてしまった。サービスエリア両脇にわずかにその跡をとどめている。

陸橋を渡って下り車線のサービスエリアからさらに裏手に進む。ここも敏満寺跡だったという所から、紅葉ライトアップ用設備がある道をゆく。やがて真っ赤な紅葉の境内に至る。胡宮に着いたのだ。多賀SEに車を止め、この紅葉を見に来る人も多いと聞いた。Dscn2996

胡宮神社も古い神社で、背後の清龍山をご神体としていたようだ。山の上には磐座がある。敏満寺の一部であったとも考えられる。紅葉の見事な神社で、一週間後のNHKおはよう関西で紹介していた。Dscn2993

表参道から出ると、目の前に池がある。大門池という名は、胡宮神社の大門にちなんだ名前で、平安時代からある灌漑池ということだった。また、大門の跡が残っていて、その大きさから神社の隆盛期がおしはかれるようだった。

次に向かったのは、楢崎古墳。発掘調査によると、6世紀から7世紀中期のものという。渡来人の生活をうかがわせるものもがあったようだ。犬上川扇状地の開発に、渡来人が貢献していたということだ。(近くの地名「秦荘」からもうかがえる。)古墳は一基のこされていた。Dscn3003

このあと、大滝神社に向かう予定だったが、ちょっと寄り道をして、高源寺へ。ここの山門は佐和山城の城門を移築したもので、、門だけを見せてもらった。Dscn3005

再び犬上川を渡る。犬上川も、このあたりまで来ると、渓谷の様相を見せてくる。川沿いの紅葉を楽しみながら、大滝神社到着。 Dscn3017

大滝神社は、犬上川扇状地の水の神様を祭る。扇状地というのは、水利が悪く、近代にもたびたび水争いがあったらしい。この神社の前の深みを、「大蛇が淵」と呼ぶ。Dscn3018

ここから、犬上川を離れ、青竜山の裏(胡宮からみて)を抜けて国道307号、多賀大社のすぐそばの広場にでる。。蒸気機関車のある公園は、「かって公園」という状態だ。

「お伊勢参らば、お多賀に参れ。お伊勢お多賀の子でござる」といわれる多賀大社は、八百万の神の祖神である、 伊邪那岐命,伊邪那美命が祭ってある。七五三参りの子供たちが晴れやかだった。ここで解散となった。好天に恵まれ、紅葉を堪能した一日だった。(この後清龍山に登った。⇒【1457】)

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2014年11月23日 (日)

【1457】青竜山

青竜山 333m  多賀町
日程:2014-11-22 天気:快晴  メンバー:単独
コース:胡宮神社登山口→磐座→頂上→胡宮神社

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近江歴史探訪のひとつとして、「多賀三社まいり」があった。多賀大社前駅から、敏満寺跡、胡宮神社、大滝神社、多賀大社をめぐり、2時前に催しが終った。まだ時間もあるので、かねてから懸案の青竜山に登ることにした。

青竜山は、胡宮神社の背後にそびえている山で、かっては山全体が御神体であった。今も磐座が祭られているとのことだった。

国土地理院の地図を見ると、頂上に向かう道がいくつか記されているが、多賀町のボランティアガイドさんに聞いたら、道が荒れて、登れるのは胡宮神社からの道だけと言われた。

本殿右を上段に登ると「磐座登り道」の石柱が立っていた。
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少し行くと獣害防止用の柵に出会う。開けて入ってまた戻しておく。最初の階段状の道が終わると、比較的緩やかな登り。ドウダンツツジの紅葉が、日の光を受けて鮮やか。足元のシダとの対比がまた美しい。
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鞍部で、左・磐座、右・頂上に分かれる。先に磐座に向かう。磐座はピークの少し下に祭られていた。かっては下の池で身を清めてお供え物など運んだと書かれてあった。磐座より先も、しっかりした踏み跡があったので、その登山道も歩けそうだった。
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鞍部に引き返し、尾根歩きで頂上に向かう。

頂上直下は急登で、階段になっている。頂上は、木が刈られていて展望がいい。縦走路はまだ先に続いている。先に着いていた地元人らしき人に、正面の山が荒神山だと教えてもらう。
Dscn3048

小休止していると、正面左から登ってくる人がいた。こちらも地元の人で、道は急だけれど、しっかりついているとのことだった。ただ、暗くなり始めると、イノシシなどの動物に出会う可能性が高いとも。
帰り道はどちらにするか迷ったが、紅葉がきれいだった往路選んだ。往復1時間足らずの登山だった。ほかの登山道も状態はそう悪くなさそう。またこの山に登る人もかなりあることがわかった。

2014年11月 3日 (月)

【1453】柏原宿と成菩提院

娘が無事出産し、一ヶ月我が家に母子を預かりました。 夫婦二人だけの生活が、突然変化してまごまご、やっと慣れたかなと思うころ、帰っていきました。

帰った翌日、さっそく自分のための外出。
滋賀県の歴史探訪講座で、山城へ登る企画があったのです。
久しぶりの山で、たまったストレスを解消と、期待していました。 ところがあいにく、天候は雨。
山は危険ということで、近くのお寺の宝物展に変更になってしまいました。

「城と街道」というテーマで、中山道六十番目の宿「柏原宿」と、近江・美濃の国境にある「長比(たけくらべ)城」が今回取り上げられました。
Dscn2784

午前中の講演は、信長と浅井長政の関係についてでした。長政とお市との婚姻のにはどんな意味があるかということを、当時の勢力関係などから推し測って話されました。大変わかりやすい説明で、興味深く聞きました。

さて午後は、わたしにとって一番の目的「長比城址』の現地見学でしたが、天候のせいで中止になり、代わりに「成菩提院」の見学ということになりました。

長比城は、美濃からの侵略を見張るための、浅井方の城でした。城のすぐ下を、東山道が通っています。 以前、この城跡に行ったことがありますが、登山道とてなく、山の急斜面をひたすら登っていくという、相当ハードなものでした。主催者が、雨がちな天候を理由に中止されたのも、うなずけないことではありません。でも非常に残念でした。

代わりに行った成菩提院では、宝物展が、開催されていました。中山道の柏原宿から少し離れていますが、古い東山道の道筋にあったようで、歴史に名を残す武将たちが、何人も宿泊しているようです。住職の話では、徳川家康がよく泊まっていて、小早川秀秋も関ヶ原の決戦前に泊まっているとのことでした。近くの「徳源院」(京極家の菩提寺)はよく知られていますが、このお寺は初めて知りました。 Dscn2788

柏原宿を一回りした形で、家光まで、上洛の際休息所となっていた、「お茶や御殿」の跡で、3時過ぎ、解散になりました。
Dscn2794

2014年5月21日 (水)

【1428】菅山寺

琵琶湖の北に「賤ヶ岳」、さらにその北に「余呉湖」。 今回の滋賀県の歴史探訪は、この余呉湖からスタート。(2014/05/16)

余呉駅を30名2グループで出発。「権現越」という古道を通って、坂口集落へ。Dscn2002 
坂口集落は、今は60戸ほどの小さい集落であるが、かっては菅山寺の門前町として栄えたところ。多くの店があってにぎわっていたところだが、今は一軒の飴屋が残るだけになってしまった。飴屋は「菊水飴」という水飴を作って売っている。かき混ぜて棒の先に取った水飴を、みんなで試食した。Dscn2009 
坂口にある天満宮の鳥居には「大箕山」という額が上げられている。この鳥居を通り、急な坂道を登ると、「弘善館」がある。天満宮、菅山寺にあった仏像などが、ここで保管展示されている。さきごろ東京で「湖北の仏たち」として展示されていた、十一面観音も、ここにある。Dscn2004 
弘善館を出るといよいよ山道。最近はウッディパルの方からごく近くまで舗装道路が付いたので、表参道に当たるこの道は利用が少なくなっているようだ。少し荒れ気味。山道の途中に、茶店跡といわれるところがあった。昔の健脚人も、ここで一息入れたのだろうか。Dscn2014 
一等三角点のある「呉枯の峰」へ続く道と、ウッディパルへ出る道、菅山寺へ行く道が集まっている。菅山寺へ行くためには、下りの道に進む。ブナの林が美しい。途中の分岐で左へ行けば菅山寺の裏手から境内に入れるが、右の道をとって「朱雀池」にでる。Dscn2016 
朱雀池に面して近江天満宮。大きい拝殿であるがすっかり老朽化している。今のところ直す手立てもないそうだ。Dscn2018

Dscn2021

 
池の縁をぐるっと回って進む。池には鯉の姿も見える。池が終って、トチの大木を回ると、古い石段の道。両側には坊舎跡が並ぶ。往時はこの道をたくさんの僧が行き来していたのだろう。

石段の正面は、菅山寺本堂。立派なお堂は、庇は折れて、今は立ち入り禁止。ここにあった本尊他仏像、宝物は、麓の「弘善館」に保管されていて、見ることができる。

右手の鐘楼にあった梵鐘は、さび落としと防腐処理のため、奈良に運ばれている。ブルーシートのかかった鐘楼は立ち入り禁止。

左手の石段を上がったところには経堂。唐より持ち帰った宋版一切経七千余巻が納められていたが、そのほとんどが今東京の増上寺に移されている。壁の落ちたところから、経堂の中を見ると「輪転式一切経蔵」が傾いてあった。一切経の詰まった経蔵を、回転させることによって、中のお経を読んだのと同じ御利益があるらしい。Dscn2026 
本堂前で昼食をとり、白子皇子の墓に回る。白子皇子というのは、どうやらアルビノだったらし。そのため余呉の地に隠棲し、土地の人に柳篭を伝えたという。

観光ガイド菅山寺の看板ともいうケヤキの巨木は、菅原道真が植えたと伝えられる。約1千年の間、菅山寺の盛衰を見つめてきたが、ケヤキも衰えを見せている。それでも今年も若葉を広げていた。Dscn2032 
3院72坊を有し、800人の修行僧がいたという菅山寺は、今は森の底に沈もうとしている。
これも一種の「夏草や兵どもの夢の跡」かな。

下山はウッディパルの方へ。舗装された林道に出てから、かなり歩いた。そして余呉駅へ。

2014年3月17日 (月)

【1413】阿曽津千軒

琵琶湖のほとりに、「阿曽津」(あそづ)と言う村があったそうです。阿曽津千軒といいますから、かなり大きな村だったのでしょう。そこに高利貸しのおばあさんが住んでいました。村人が金を借りて返せないと、ひどい取り立てをしたそうです。我慢しきれなくなった村人たちは、おばあさんを簀巻きにして、琵琶湖に投げ込んでしまったそうです。そのおばあさんの祟りで、大きな津波が来て、村は湖の底に沈んでしまいました。

というような民話が残っています。そのほか、おばあさんは堅田の漁師に助けられたとか、津波が来て逃げた人の作った村には「野」がつくともあります。

そういう話を聞いて、ぜひその阿曽津に行ってみたいと思っていましたが、なかなか行けませんでした。と言うのは、そこは、琵琶湖と山にはさまれたところで、両側は絶壁で岸沿いに抜けることができないのです。行くには山越えか船しかありません。山歩きは苦になりませんが、道が少々不安でした。でも、少し前、山の中でそれらしい矢印を見たので、思い切って出かけました。

地図で見ると高月町西野からが一番近いようでした。ともかく西野まで行って、誰かに聞いてみようと思っていると、散歩中のご婦人。山の入り口を訪ねると、途中まで説明して、「うちの人に案内してもらうといいわ」と、携帯で連絡を取ってくださった。畑にお出かだったお連れ合いが帰ってきてくださって、案内していただくことになった。

獣害対策のゲートを入ってしばらく行ったところで車を置いた。このあたりは「古保利古墳群」があるところで、古墳の案内板の横の道を入る。4WDの車ならまだ先まで行ける林道だった。P1090240 
林道はハイキング道「湖辺の道」を横ぎって、琵琶湖側についている。木の間から琵琶湖の水面が見える。道がカーブした辺りに簡易トイレがあり、その横の石組が、阿曽津ばばあ(高利貸し)の屋敷の井戸だったと言われているらしい。位置的に琵琶湖よりかなり高いところにあり、こんなところまで家が建っていたのかと思う反面、言い伝えを疑問視する気持ちも大きい。P1090221 
林道終点は、県有林で、杉の植林の中を下る。道がついていた形跡はあるが、荒れてわからない。しばらく降りると、杉木立の奥の祠を指して、あそこが地蔵堂だと言われた。今でも「おこないさん」にはお餅を供え、お守りされているとのこと。後で、いろいろ霊験あらたかなることも聞いた。P1090239 
地蔵堂からさらに少し下ると、石組された5,6段になった広い土地が見えた。ここは昔田んぼだったそうで、なるほど湿地になっている。食糧難の戦時中など、大切な農地だったということだ。P1090226 
そしてもう湖岸。石がごろごろしているだけのところ。だが水の中には、今も石垣が残っているということだ。

むこうの山の笹斜面に通路らしきものが見えた。有漏(ウロウ)神社への道と言われたが、一応今降りて来た道なきところも、石だらけの湖岸も、笹を刈り取った山へ登る道も、湖辺の道の一部らしい。道標があった。P1090225 
笹の中の道を登って、ちょっと迷って、有漏神社を見つけた。地蔵堂が小さな祠だったので、同様の大きさを想像していたが、拝殿も備えた立派な神社で驚いた。かっては阿曽津の神社だったが、今は湖岸を北に行ったところの山梨集落の人たちで守られているとのこと。古い椎の木が神社を守っているようだった。P1090229

P1090233 

岸伝いに阿曽津に戻れないかと試みたが、やはり駄目で、崖をよじ登って元の道に出た。P1090235 
湖だからと津波の想像をしていなかったが、阿曽津だけでなく、琵琶湖に沈んだ村がいくつもあることを知り、驚いている。
また道を聞いただけなのに、現地まで案内してくださった西野の方に大変感謝しています。

2013年2月17日 (日)

【1306】伊豆

94歳を間近に控えた母の希望で、伊豆旅行をすることになった。伊豆のどこへ行きたいという大した希望もなく、行ったことがないから行きたいという母のために、何とか計画を立てて、ようやく実行の運びとなった。娘も同行すると言ってくれて、いくらか気が楽になった。

新幹線三島駅下車、レンタカーに乗り換える。公共の交通機関ではとても旅行を続けることはできない。

沼津港魚市場で昼食をとる。母の足を考えて近くの店に入ったが、ここは大外れ。セット物しかないが、これが海の傍かと思うまずさ。あとで細い路地に入るとおいしそうなものがいっぱい。悔しい思いをする。

伊豆半島の西側の付け根を少し走って、海越しの富士山を見ようと思ったが、富士は裾野しか見えなかった。あきらめて山の中に入る。

修善寺は山の中のひなびた街。温泉があって、昔源氏が興亡し、文豪が湯治に来たということが売りの観光地。坂道が多く、歩道が狭い。車椅子が全く役に立たなかった。

虎渓橋Hasi

修善寺 Photo

指月殿 Photo_2

宿は天城峠寄りの「湯ヶ島温泉」 国道414号から細い道をくねくねと進んだ先に湯けむりが上がる。フロントは5階の、渓流ぶちに立つひなびた宿。夏は渓流の涼しさ、秋は紅葉を満喫できるとおもうが、冬枯れの中では何とも侘しい。それでも温泉で温まると、露天湯の冷たい空気が心地よい。

宿の下を流れる「世古峡」Photo_3

伊豆2日目は雨。それでも滋賀北部に比べれば暖かい。とりあえず天城越え。宿で聞いたら、旧天城トンネルは車で行けるとのことで、母を連れて行くことが可能と、脇道に入る。これが未舗装の、片側絶壁の道。かなり山の奥に入ったと思われる頃、前方に「鹿」発見。一回目はすぐに谷に隠れたが、次は50mくらいまで接近できた。Photo_4

その後まもなく「旧天城トンネル」 道路わきで見た文学碑と合わせて、「伊豆の踊子」の場面を思い出す。

天城トンネルから下田側の414号に戻るのは、距離も短く道も広かったので、トンネルを見るだけなら逆に走った方が早かったかもしれない。

珍しい「ループ橋」を通過。下の駐車場からも眺める予定が、入り口がわからず通過してしまった。ここまでは雨脚も弱く、このままいけばよいのにと思っていたが・・・・。

山の中を走り抜け、ようやく下田に着く。まだ腹のほうの催促がないのでそのまま伊豆最南端「石廊崎」に向かう。石廊崎の灯台は、近くまで車で行けるかと思ったが、乗り入れはできない。坂の遊歩道が一般の人で15分ほど。母ならその2倍以上で、かつ登り。急すぎて車椅子の自信がない。雨脚が強くなってきた。母に伺うと、ここまで来たから行けるところまでと言う。カッパを着せる。Photo_8

休み休み登るが、灯台の先が見えるところでギブアップ。駆け足で先を偵察をするが、先端の神社への道は急な上、雨で滑り、とても歩かせられない。見晴らしも最悪。

川のように入り組んでいる湾Photo_5



先端の神社 Photo_6

帰り道は下りなので少し余裕ができ、河津桜を鑑賞できたようだった。今年の河津桜は開花が遅れていて、河津町のほうではまだほとんど咲いていないと聞き、スルーすることにした。

雨の中の河津桜。メジロが花をついばんでいた。 Photo_7

さて昼食。全員が昨日の昼食が不満だったので、そのリベンジがしたい。ということで、港のそばの回転寿司。港から上がったばかりという地魚を中心に握ってもらって、おなか一杯詰め込んだ。特に「金目鯛」などの鯛類はおいしかった。

母が「お吉」のことを気にしていたので、「お吉記念館」に立ち寄る。私は興味がないので、娘にお守を任せ、車で休養。この記念館のある「宝福寺」は、お吉の墓があると同時に、坂本竜馬が藩主山内容堂から脱藩を許された場所でもあるそうです。Photo_9

宝福寺で時間を食ってしまって、「日蓮」関連の場所をスルーして、伊東温泉のホテルに向かいました。

今度のホテルは昨夜と大違いの大型観光ホテル。食事も部屋も大満足でした。残念なことは、翌日の朝も曇っていて、日出が見られなかったことです。それともう一つ、20分ほど走った時、母が補聴器がないと気づいたけれど、引き返してもどこで落としたか見当がつかず、結局そのまま進んでしまいました。

三日目は娘の希望で箱根のポーラ美術館へ行きました。雪を心配しましたが、道路は凍結もなく、通行できました。三島に下りる手前で、雲が移動」して、富士山の裾野から頂上まで見ることができました。雄大な富士山に、母は大喜びでした。Photo_10

2012年10月16日 (火)

【1278】桶狭間の戦い

織田信長が、今川義元を奇襲で破って尾張の覇権を握った・・・・という風に歴史で習ったような記憶。(歴史の先生が「そんなこと教えなかった」と怒るかも)

先日仕事にあぶれて、息子の住まいを見に行った帰り、何か面白いものはないかと探していたら、「桶狭間の戦い」があった近くだと知った。寄り道をすることにした。

寄り道をしたのは、沓掛城址、桶狭間。

沓掛城は、今川義元が戦いの前夜宿泊したところということで選んだ。国道1号線から豊明市役所方向に2kmほど進んだ集落の公園として残っていた。(愛知県豊明市沓掛町東本郷11 Photo 夕方だった。ここに来た人は、高校生のアベック、公園のトイレで用を足した人、犬の散歩の人、見回り?の人。私のようにわざわざ城跡を見に来る人は皆無。

桶狭間は二箇所あった。戦いだからある程度広がった範囲だとは思うが、行政区が違うから、お互いがこちらが本家本元と主張しているのがおかしい。

1号線を挟んで中央競馬場の反対側に桶狭間古戦場(愛知県豊明市栄町南舘11)に着いたときはもう薄暗くなりかけていた。部活帰りの近くの中学生が「いつ通ってもここは気持ち悪いよな」と話しながら通り過ぎて行った。鈍い私には、何も感じないのだが。手を入れた植込みに、照明が当てられていて、街の中の緑のスポットという感じの公園だった。今川義元の墓のほか武将の戦死の場所を示す石塔がたっている。まさにこの場所が今川軍の陣跡といいたいらしい。 Photo_2 ここは「古戦場」として見学に来る人がかなりある模様。もう暗くなっているのに石塔など見て回っている人たちがいた。

もう1箇所、桶狭間古戦場といわれているところは、そこから1キロほど南西にある。国道1号線の「桶狭間古戦場」の看板を、南に入る。このころはもうすっかり暗くなって、とにかくナビに指図されるまま進んだら、こんもりした山のふもとのさびしいところへ連れて行かれた。途方に暮れてうろついていたら、こんな掲示板。

Photo_3
なんだこれから古戦場跡ができるのかと引き返した後で保存会のHPを見たら、私が暗がりをさまよっていたより東側に、史跡らしきものがあるらしい。もっともわかっていてもあんな遅い時刻、どうにもならなかっただろう。http://okehazama.net/db/sisekimap/index.html#1

こうして桶狭間は消化しきれなかった。

何十年も前に見た映画の、合戦シーンが頭の片隅に残っていて、小高いところから信長軍が駆け降りたはずだけど、そこはどこ?と、地形を見てしまう。どちらの古戦場跡にも岡らしきところがあった。